透析を受けながら活躍する人々

掲載:2015年 vol.19

関 育子さん
子どもの頃からずっと弾き続けているピアノと一緒に。
歴史を感じさせる力強い音色に合わせて、関さんの伸びやかな歌声が教室に響く。
「ピアノの音や歌声には、心が表れるんですよ。一曲一曲、大切に奏でるという気持ちが大切なんです」。

ピアノは、私の人生の一部。
音楽の素晴らしさを、伝えていきたいです。

関 育子さん

ピアノ教師

関 育子さん
1949年、栃木県宇都宮市生まれ。短期大学の幼児教育科を卒業後、7年間幼稚園教諭として勤務。退職後は自宅でピアノ教室を主宰しながら、自らもピアノ演奏やコーラスで活動。2004年に糖尿病と診断され、2011年に血液透析を導入。現在は、娘さんと一緒に8人の生徒を教え、年に1回発表会も開催。以前の経験から、今は日々の生活習慣を大切にし、散歩やお風呂上りのストレッチなど、こまめな運動を心がけている。

ピアノ教室にコーラス、毎日の家事。
大切な人たちの支えがあるから、がんばれます。

関 育子さん

年に一度の発表会など、記念の写真が壁一面に飾られた教室で。中には、関さんの学生時代の写真もある。生徒さんへの愛情が伝わる光景。

 私がピアノを習い始めたのは、小学1年生の時です。音楽の教諭をしていた叔父の影響でした。母が買ってくれたピアノが家に届いた時の喜びは、今でも忘れられません。現在は、自宅でピアノを教えているのですが、教室のピアノはその時のものなんですよ。年に1回、調律師の方にみてもらって、大切に使っています。一緒に人生を歩んできた、私自身の一部のような存在です。
 ピアノを弾くのも好きですが、人に教えることも楽しいです。短大の幼児教育科を卒業してから、7年ほど幼稚園教諭をしていた経験も関係していると思うのですが、何より、私は自分の先生に師事していた時に、何でもすんなりこなせる生徒じゃなかったんですね。「どうすればうまくなるんだろう」と色々考えながら努力したタイプなので、教える立場になった今、生徒さんの悩みがすごくわかります。だから私も、上達するためのポイントをできるだけわかりやすく伝えられるように工夫しています。こうして弾けなかった曲を弾けるようになる様子を見ると、達成感とともに「ピアノを教えていてよかった」と、やりがいを感じます。
 それから、実はコーラスもやっていたんですよ。バックコーラスとしてテレビにも出演しました。中でも紅白歌合戦は、思い出深い経験です。こうして自分の好きな分野で、いろんなことに挑戦できるのは、とても幸せなことだと思います。
 ただ今は、忙しく楽しい毎日の中で、もう少しだけ体をいたわってあげたらよかったかなという思いはあります。10年前、体調を崩して病院へ行った時に、糖尿病と診断されました。確かに当時は、食事の量が多めでした。エネルギッシュに動くため、また多少のストレスも理由だったのかもしれません。医師に「このままでは透析をすることになりますよ」と言われ、その後しばらくは注意していたものの、やはり家事や仕事に意識が集中すると、食事は元通りになってしまいました。足がむくんで重いと感じるようになり、再び病院へ行くと緊急入院を告げられました。2011年4月のことです。
家族からのメッセージ

透析の教育入院を終え、退院した日に自宅のテーブルに置かれていたメッセージ。温かい、家族の絆。

 折しも、ひと月前には東日本大震災があり、ニュースでは透析患者の方の病院受け入れや治療について報道されていました。恐怖や不安を感じる毎日で、ひどくふさぎ込みました。でも、この時私を支えてくれたのは家族でした。入院中、夫は着替えを持って病院に来てくれ、娘は仕事で忙しい中、家事をすべてやってくれました。そして退院の日。夫と娘は予定があったのですが、一人で家に帰るとメモが置いてありました。「退院おめでとう」「そうじしたよ」。家族の温かさに、涙が止まりませんでした。その時のメモは、私の大切な宝物です。
 今ピアノ教室には、幼稚園児から社会人まで、8人の生徒さんが通ってきます。基本的に透析のない日ですが、大学生の生徒さんなどは授業のある曜日の関係で、都合が合えば透析の後で教えています。透析の前日は憂鬱に感じますが、そういう時は透析が終わった時のことを考えるようにしています。透析が終わると、いつもガッツポーズをするんですよ。すると、クリニックの方も笑顔で「終わったね」と言ってくれます。体や心がつらい時もありますが、明るく思いやりのある家族や生徒さん、クリニックの方に支えられていると実感する毎日です。これからも周りの人を大切に、明るく人生を歩んでいきたいと思います。

ページトップへ