透析を受けながら活躍する人々

掲載:2016年 vol.26

加納 多恵さん
ご自身の経験から、「愛知県腎臓病協議会 青年部」「日本移植者協議会 東海支部」の活動に取り組む他、国内外の移植者スポーツ大会にも参加している。

闘病生活の中で、
多くのことに気付かせてもらいました。
感謝の気持ちを胸に、
人生を前向きに楽しみたいです。

加納 多恵さん

加納 多恵さん
1974年、愛知県名古屋市生まれ。12歳の時に一型糖尿病を発症し、その後高校時代まで甲状腺機能低下症、肝臓肥大、急性膵炎などを患う。慢性腎不全により30歳で血液透析を導入。31歳の頃に視覚障害がみられるようになる。34歳でお父様から腎臓と膵臓をゆずり受け移植手術を受ける。現在は血糖値も安定し、愛知県腎臓病協議会青年部や日本移植者協議会の活動をはじめ、世界で行われる移植者スポーツ大会にも参加。また高校や大学などでの講演も行っている。最近は書道や絵手紙をはじめ、英会話教室にも通うなど充実した毎日を送っている。

父からゆずり受けた腎臓と膵臓。
絶対に守っていくと誓いました。

 私が透析を導入したのは30歳の時でした。でも、それよりずっと前の12歳で一型糖尿病を患い、今も治療を続けています。もともと私は運動が大好きで、自他ともに認める活発な子どもでした。でもある日急に糖尿病を発症し、この後中学3年生で甲状腺機能低下症、高校時代は1年生で肝臓肥大、2年生で急性膵炎、3年生で足の痛みがひどくて歩けなくなるなど、体調の悪い時期が何年も続きました。いずれも原因は不明で、半年から1年ほどで回復したのですが、たとえ調子の良い日が続いても、他の要因が加わると不安定になります。どれだけがんばっても血糖コントロールがうまくいかず、自暴自棄になって外出時にインスリンを摂取しなかったりタイミングを遅らせて、後で罪悪感と後悔に襲われることもありました。
 高校時代で思い出に残っているのは、2年生の時の修学旅行ですね。中学時代には行けなかったことと、当時は退院後で体力に自信がなかったので、みんなと一緒に長崎の街を楽しめたことは本当にうれしかったです。ただ、少し体調が悪くなった時は「なぜ私だけ」「みんなと同じ“普通”でいたい」と強く思っていました。周囲の人が気遣ってくれることに、私の方が敏感になっていたのかもしれません。贅沢ですよね。でも高校3年生の時、休みがちだった私に友人が「出席日数があと1週間足りないと留年だよ」と教えてくれたのです。自分自身や家族ですら気にしていなかった出席日数を友人が数えてくれていたことに驚いて、心から感謝すると同時に「みんなと一緒に卒業したい」と強く思いました。そこから医師も協力してくださり、無事に卒業することができました。予備校・大学時代は比較的体調も落ち着いて、アルバイトをしたり海外旅行に出かけられるまでになりました。19歳で韓国へ行ってから、多い時では年に3回海外へ出かけましたね。でも大学を卒業して、23歳頃から低血糖で救急車を呼ぶことがでてきました。この頃の海外旅行では、靴ずれから足の壊疽を起こし、医師に切断をすすめられました。でもさすがに決断ができず、医師の懸命な治療と家族や同室の患者さんご夫妻の大きな支えで完治することができました。
加納 多恵さん

海外旅行が大好きで、現在は同じ膵臓移植の経験を持つ友人と英会話教室にも通っている。「先生がユニークで、笑いの絶えない授業。通うのがとても楽しみなんです」。

 30歳で透析を導入すると、不均衡症候群という透析導入時の合併症によるひどい頭痛や嘔吐に悩まされ、さらに酸素濃度が低下してしまい透析時は毎回酸素マスクをしていました。また血糖コントロールが難しくなり、多い時は月に一度低血糖で救急車を呼ぶようになり、家族は病院で「植物状態の覚悟を」と言われたこともありました。その後、視覚障害も出始め、文字が大変見辛くなり、失明の恐怖を感じるようになったのです。
 私は、透析の導入が決まってから腎臓と膵臓の移植申請をしていました。ひどい低血糖で、移植医から命の危険を避けるために生体移植をすすめられ、父がドナーになってくれました。この時、「もらった大切な臓器を絶対に守っていくのだ」と決心しました。移植から今で7年経ちますが、父の膵臓のおかげで血糖値はとても安定しています。
 長く病気と闘ってきましたが、その中で、多くのことを気付かせてもらいました。目が不自由になって「見えること」の素晴らしさを、海外の病気の子どもに出会って「日本の医療環境の快適さ」を、何より家族や友人が「そばにいることの幸せ」を実感しました。支えてくださった多くの方への感謝の気持ちを胸に、少しでもお返しをしたいという気持ちで、最近は絵手紙などのボランティアを始めました。こうした機会をもっと増やしていくことが、今の私の夢です。

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