透析を受けながら活躍する人々
掲載:2020年 vol.39

患者さん同士の関わりや情報交換を大切に。
それが、より良い治療の選択や心の
支えにもつながります。
長町 利広 さん
金融機関 勤務
長町 苗 さん
外資系企業 勤務
患者さん同士の集まりで 出会い結婚。
現在は二人で 在宅血液透析を導入。
―透析を始められたきっかけを教えてください。
- 利広
- 私は横浜で生まれて、1歳の時には香川県の父の実家へ引っ越し、高校生まで過ごしました。趣味の音楽活動で作詞をしていたので、将来はコピーライターになりたいと思っていたんです。高校卒業後は、東京デザイナー学院という専門学校で1年間コピー制作を学びました。その後、一度四国へ戻りましたが、通販会社の広告・編集の制作部門で働くことになり上京。10年間在籍していました。でも制作現場というのはかなり過酷で、28歳の時に過労で倒れたんです。血圧も異常に高くて、四国へ戻って療養しましたが、32歳で慢性腎不全と診断されました。今思うと、当時は常に体調が悪かったですね。治療費のためにも働こうと、高松で営業や工場勤務をしていました。でも2ヶ月から半年働いて入院、ということが重なり、38歳で血液透析を導入しました。
- 苗
- 私が透析を始める原因になったのは、成人1型糖尿病です。それまで大きな病気をすることはありませんでしたが、28歳で転職する時に受けた健康診断で糖尿病と診断されました。当時は1型とはわからず後で判明したのですが、ショックでしばらく病院へは行けませんでした。その後、治療を受けながら法律事務所に勤めましたが、事務所を閉めることになった時、今後は医療に携わる仕事に就きたいと思い39歳で看護学校を受験して入学したんです。ところが糖尿病黄斑浮腫の症状が出て、クレアチニンも3.5という値になったため、3年生の時に退学せざるを得なくなりました。一念発起して進んだ道だったので、当時は絶望しました。そして翌年、43歳で血液透析を導入しました。
―透析導入の前と後で、変わったことはありましたか。
- 利広
- 透析を始めたことで仕事を続けるのが難しくなり、実家へ帰りました。その頃父が病気になり看病が必要になったので、透析のない日は食事を作ったり父の介護をしていました。また、元々通っていた病院に通院することが難しくなり、転院したんです。すると、みるみる体調が良くなってきて「何かしなければ」という意欲がわいてきました。近くで仕事を探すのが難しかったことや、もともと文章を書く仕事をしていたこともあり、ブログを書いて収入を得る方法を思い付きました。早速インターネットの環境を整え、ブログを開設。今も運営しています。
- 苗
- 私は透析の導入自体には、ショックを受けませんでした。医師から「将来は透析を」と言われた時から、夫のようにインターネットなどで情報を発信している患者さんのブログや本を読んで勉強していました。透析についてきちんと知り、患者さん同士のつながりもできたことで、恐怖や不安はあまり感じませんでしたね。変化があったのは、プライベートでは結婚でしょうか。私たちは、ネット上でつながりのある患者さんが集まるオフ会で出会いました。
- 利広
- 「恋愛なんてもうしないだろうな」と思っていたのに、人生はわかりませんね(笑)。オフ会で出会った人たちのおかげで、治療や仕事、人生に前向きになれました。
- 苗
- 患者さん同士のつながりは、情報交換ができたり悩みを分かち合える良さがあります。より良い治療を選択するためにも、こうした関係を大切にしていきたいと思っています。
―現在はお二人とも在宅透析をされていますね。
- 利広
- 週に6回3時間ずつ、夜に自宅で透析をしています。以前は首の後ろや肩のあたりに石灰化が見られましたが、在宅透析を始めてからはそれがなくなりました
- 苗
- 私は夫の透析後に始めるので、夜が遅くなって少し眠いですね(笑)。食事制限をしなくても血液データが良いので、食事でしっかり栄養が摂れるのはうれしいです。
―今後の抱負を教えてください。

- 利広
- 結婚後、金融機関に就職しました。がんばって働いて、スキルアップに努めたいです。それから故郷にいる母も高齢で体調が心配なので、支えていけたらと思います。
- 苗
- 今は外資系企業で働いています。透析の不便さはありますが、いろんな仕事を任せてもらえるのがうれしいです。夫婦ともに平日は仕事があるので、土日は映画や外食など余暇を楽しみたいですね。